講座 "See the Frontline"
- [No.01] 12年目の道/ルワンダ:虐殺教会
[No.01] 12年目の道/ルワンダ:虐殺教会
一本の建設中の太い道が過去の忌まわしい記憶を打ち消すかのように延びていた。忌まわしい記憶とは1994年に起きたルワンダ虐殺のことだ。
あるテレビ番組のロケハンでルワンダに来ていた。「その場所」に行くかどうか心の中では少し迷っていた。「その場所」とは、94年のルワンダ虐殺の凄惨な舞台の一つともなったタラマ教会だ。94年4月、教会では5千人近くの人間(ツチ族)がインテラハームエなどフツ族過激派の手によって殺された。過去2回(95年、96年)ルワンダ虐殺関連取材でタラマ教会を取材していた。あれからすでに10年余が経っていた。その後教会は、虐殺のむごたらしさを記憶に留めておくために、メモリアルとして整備?された事は聞いていた。当時の現実を取材した者にとってメモリアルというものはあまり魅力的には響かない。ために、もう一つ再訪への気分は高まらなかった。
連れが見たいといったのでロケハンの最終日キガリからタラマに向った。車が進んで行くにつれ記憶が蘇ってくる(とはいえ、オレにとってはついこないだのことなので、思い出的感傷はほとんどなかった。オレにとってもアフリカにとってもそれは今という現代史だ)。
この道、この土の色、あそこのカーブ、遠くの森、その日は日差しが強い割にはヘイジー(hazy)であった。以前もそうだったが車で走りながら「ああ、この道を自分らの近未来に待ち受ける地獄の試練を知らずに何千というツチ族の人間達が安全な場所と信じていた教会に向ってひた走りに走ったんだな・・・」と、そう思っていたということが鮮明に思い出された。走りながら記憶の糸を手繰り寄せていた。全体の農村風景はそれほど変わったようには思えない、ただ道行く人の数は増えたかもしれない。
橋が見えてきた。辺りは湿地帯だ。運転手のサムエルが「ニャバロンゴ」と言った。ルワンダのことを読んだり書いたりする時に何度も出てくる川の名だ。何気ない一言がオレの記憶を刺激した。ニャバロンゴ、それはもう一つの虐殺の象徴でもあった。94年4月、フツ族の過激派の手によって屠られた無数のツチ族の死体がこの川をビクトリア湖に向って流れたのだ。湖に流れ着いた膨張し、腐乱した無数の死体によって上流(ルワンダ)で起きた異変をタンザニアの人々は知った。
当時(94年)、フツ族過激派のラジオは「ゴキブリ(ツチ族)を殺し、ニャバロンゴに放り込め」というプロパガンダを昼夜を問わず流していた。今は橋もそのままに、赤茶色に濁った川もまた静かにゆったりと流れていた。現在建設中の道路と同じく、橋もまたドイツの手によって架け替えられるという。道路工事のために拡張された道のせいか、記憶が曖昧になりかけたとき、ふと車は一本の細い道に入った。土造りの傾きかけた農家、畑、木立・・・、何かがよみがえって来た。
「もう近いぞ」、と心の中でそう言っていた。当時辺りは不気味に静まり返っていた。ゆるいカーブのその先に茶色いレンガの建物が見えた。タラマ教会だ。車を止め中に入る。「メモリアル」として保存されるためなのか、教会を包むようにしっかりとした鉄屋根がかけられていた。入り口を入ったところに、新たに棚が作られ何百というしゃれこうべ(骸骨)がきれいに並べられていた。
以前は教会の前に作られた棚の上、下にそれこそ無造作に多くの骸骨、体のあらゆる部分の骨が並べられ、うずたかく積まれていた。しかし、そのいかにも保存された風な骸骨の棚を背にして目を転じた時、その空間、教会内部の時間ははっきりと停止していた。
モチロン腐った死体や人間の油などが残っているわけはないがしかし片付けられ、新たに取り替えられた説教を聴くために座る長椅子の板の上を前(説教壇)に進むにつれ(オレは当時この板の上からその下に広がる散乱し、腐敗した臭いを発する人間の跡形をビデオカメラで撮影していた)、タカをくくっていた「メモリアル」がとんでもないものだということを思い知らされた。オレが撮影した当時と部分的にはそれほど変わりなく痕跡は散乱し、臭いすら放っていた。髪の毛、歯、大たい骨、ノート、傘、靴、あらゆる物がそこにあった。過去とは単なる時間の単位にしか過ぎないことを目の前の痕跡は語っていた。
10年余りは過去ではなかった。今だった。「時間」ですら過去を感じさせない時、ならばなおさら殺した者たち、殺された者たちの係累、目撃者たちの「心」はそうした物理的経過に反比例するかのように過去を拒絶し、今という心の痛み?を刻んでいるのではないか。圧倒的といっていい。凄まじいといってもよい。それほど「ルワンダ虐殺」は終わってはいなかった。オレは、伝える人間としてカメラを持ってこなかったことをひそかに恥じた。
すべてが散乱し、捨てられ、ている風景、それは人間の罪と闇の深さをこれでもかと糾弾していた。だが隣の小さな建物に移った時、言葉を失った。小さな建物には朝の光が差し込んでいた。その光に中にあらゆる部分の人間の骨がまとめられうず高く積まれていた。骨以上にもっと心を締め付けたのは殺された時に人間たちが身にまとっていた衣服だ。それは当然人間の体に血と涙とあらゆる類の油によってこびりついていた。その一枚一枚を剥がし、拾い集めこの部屋に集めた。未だ油照りや、血の跡の付いた衣服、赤、青、黄、白・・・・、朝の光に照らされて鈍く光を放ち、ごわごわに固まり、捨てても捨てきれない人間たちの無数の思い出が狭い部屋の中いっぱいに吊り下げられていた。連れの携帯のカメラで写真を撮ったとき、その一枚がオレの頭に触れた。柔らかな感触はなかった。
建物の外に出た。陽射しの中に緑の草が光っていた。サミエルが大きな石の壁の前にオレを案内してくれた。灰色をした未完のその壁には、この場所で殺された人間たちの名前が刻まれていた。12年前のルワンダ虐殺は終わっていなかった。しかしそれは、この目の前にあるむごたらしい痕跡の中にだけあるのではない。2006年6月、雑誌「TIME」は次のような特集を組んだ。「CONGO/THE HIDDEN TOLL OF THE WORLD’S DEADLIEST WAR<コンゴ:隠された世界で最も死亡率の高い戦争の犠牲者たち>(戦死、病気、飢餓などで1998年以来400万人の人間が死んだといわれている/筆注)」、ここで詳しく解説している余裕はないが、ルワンダ虐殺を考える時、狭い意味での殺した理由(何故)ばかりを訊ね、考えているとルワンダ虐殺の持つもう一つの大きな全体図と意味を見失うことになる。
「TIME」が特集した東コンゴの世界のメディアから隠された、世界で最も死亡率の高い戦いこそは、1994年のルワンダ虐殺が行き着き、今なおそれが終わっていないという最大の証拠だ。そのとき、80万人が殺されると同時に、何故200万のフツ族が先を争って東コンゴ(当時のザイール)の不毛な火山性台地の上にいくつもの難民キャンプをつくったのか。それは単なる偶然だったのか。水もなく難民たちが生きるのに不毛な台地にはしかし、一部の人間たちにとっては喉から手が出るほど欲しくて堪らない豊かで無限の金属資源が眠っていたのだ。無限の金属資源、200万を越す難民・・・、そこに何かが起きない筈はナイ。その出来事が単なる偶然だと考えるのはあまりにもナイーブ過ぎないか。国連をはじめとした国際社会は何者か(「一部の人間たち」)によって仕組まれた罠に嵌まった。シナリオの書き手は誰なのか。2006年、「隠された世界で最も死亡率の高い戦い」の原因もまた大地の奥深くに眠る金属資源なのだ。そこからゆっくりとフィルムを巻き戻してゆくと12年前の1994年のルワンダ虐殺にたどり着く。
その日(2006年7月1日)の午後、オレはほぼ満員のルワンダ航空でナイロビに向け首都のキガリを飛びたった。