講座 "See the Frontline"
- [No.02] 「ホテル・ルワンダ」
[No.02] 「ホテル・ルワンダ」
少し前まで、街で「ホテル・ルワンダ」が上映されていた。この映画は、エミレーツ航空でアフリカに仕事で往復する時、何度となく、機内上映で見させてもらった。その前に映画の存在はネットで知っていた。以前、テレ朝の深夜番組「虎ノ門せいこうナイト」で、辛口で有名な井筒監督がかなり興奮気味に映画を褒めていた。いわく「きっツー」「ホンマ、きついわ、でもみんなこういういい映画は見なアカン、大手の配給会社は、どこに目を付けておるンャ」とかなり興奮と、憤りをこめて話していた。やっぱり圧倒的事実の凄さ(それを劇的に表現できればの話だが)には、かなわないということか。
映画自体は、虐殺を逃れた人間を救ったホテルのマネージャーが主人公の話だったので、観客が何処までルワンダ虐殺の本当の姿を理解できたかはわからない。ただ、良くできていた映画である事は確かだ(筆者は94年から96年の間、当時テレ朝の「ニュース・ステーション」の特集で計7回ルワンダのレポートをさせてもらった)。当時の雰囲気、アフリカの紛争地帯の危なさ、きな臭さはかなりうまく表現できていた。アフリカロケ(南ア)、スタッフ等、アフリカを知らないとあの雰囲気は出せない。とくに、ビジムング将軍(ルワンダ政府軍、フツ族過激派、ツチ族虐殺の黒幕の一人)が、スコッチをラッパであおる時のどうしようもない雰囲気(つまり、植民地主義者、欧米の価値観にはどこか抵抗するものの、しかし酒には簡単に参ってしまう、素直さと複雑なインフェリオリティ/劣等感?)が出ていて秀逸だ。また演技も素晴らしい。何度となくあの雰囲気を見てきた。また、テレビクルーの雰囲気も納得の演技だった。
「ルワンダ虐殺」について書き始めたら紙がいくらあっても足りなくなる(筆者は今、自分の現地ルワンダ取材体験を交えた本を執筆中で、何とか世に出したいと思っているが・・・)ので、2,3のポイントのみここでは簡単に解説してみる。
94年4月6日、ハビヤリマナ・ルワンダ大統領が乗った飛行機が撃墜され、その直後から殺戮が始まった。その前年の93年8月、フツ族政権と反政府勢力(RPF/ルワンダ愛国戦線)との間で結ばれたアルーシャ平和合意を受けて、ルワンダの首都キガリを中心に約2500人の国連PKO部隊(UNAMIR)が展開していた。その司令官がカナダ人のロメオ・ダレル氏だ。UNAMIRの主任務は国連憲章第6章下、停戦監視と新政府樹立のサポートだった。任務指令(Mandate)の中には、積極的虐殺ストップ、インテラハームウェなどの過激派民兵の武装解除は入っていなかった。映画の中で、司令官のダレルがツチ族市民を載せたトラックを襲うフツ族過激派に対して、地面や空に向けた威嚇発砲しかしていないのはそのためだ。ROE(交戦規定)で自衛以外の発砲は禁止されていた。逆にソマリアでは憲章7章の下で、力によるある程度の武装解除的行為は許されていた。それがその後の混乱、アメリカ軍とソマリア・ゲリラ達の全面武力対決に発展したのだが・・・。
あの場面は見ていてなんともやりきれないかもしれない。つまり目の前で殺されてゆく無辜の市民を見殺しにしたということだ。しかも、驚くべきことに、停戦監視の大前提である紛争当事者(ルワンダ政府軍とRPF)の停戦合意が崩れ(殺戮と内戦の同時進行)、UNAMIR駐留の前提もまた失われたとして、4月21日の国連決議912によって安保理はUNAMIRの大幅削減を決定、殺戮進行の最中、なんと兵員を2500人から250人へと一挙に削減。すでにこの時点で20万人以上が殺されていたが、その後、邪魔となる国際社会の監視の目、抑止力が無くなったため、殺しはさらに拡大、言われるところの80万人が最終的に殺された。
削減に最も積極的に動いたのがアメリカだ、ソマリアでの手痛い敗北のせいでアフリカの紛争には介入しないとアメリカ(クリントン大統領/当時)が決めたからだと巷間言われているが、事はそんな単純ではない。そこに意図的アメリカのINACTION(動かないこと、怠慢)があった事は確かだ。ではそれは何故か?そこに実は「ルワンダ虐殺」の真の意味≠ェ隠されている。ルワンダで起きた前代未聞の人間的悲劇(ジェノサイド)、それは次の第A、第B幕へのほんの序曲に過ぎなかったというのが筆者の見方だ。そのことについて今筆者は書いている。
*一般的にジェノサイド(Genocide/虐殺)はそこに計画的、意図的、組織的背景がある殺しのことを云うが、そうではない殺しのことはマサカー(Massacre)という。