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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第6回

【植民地序曲】

しかし、全ての始まりが、ヨーロッパによるアフリカの植民地支配にあるといっても、ほとんど全てのアフリカの国々が植民地とされていた事実を考える時、余りにも漠然としている。支配全体を通じてある共通性(地元有力者を使った間接支配、ミッショナリーによる教育、経済活動の民間委託、当局による法と秩序、税金徴収の管理、支配→これらを称して3Cs:Commerce、Christianity、Civilizationと呼ぶ時もある)はあるものの支配国の統治方法や地域によってそれぞれ違いもあった。また、何故、いつ頃から本格的アフリカ植民地支配が始まったのかについても、一応は帝国主義列強によるアフリカ分割が決められた1884年のベルリン会議辺りとされているが、正確にはなかなか難しい問題だ。意外にも、「1870年代後半には、南アフリカという目につく例外はあったが、ヨーロッパはサハラ砂漠より南に植民地らしい植民地をまだ持っていないも同然で・・・・」(コンゴ河)という状態であった。植民地支配という言葉を使ったが、内実はさらに苛酷で実態は搾取といっていい。『アフリカ世界』(世界思想社)によれば、1876年の時点でヨーロッパ列強に属していたのはアフリカ大陸総面積の10・8%だったが、1900年には90・4%へと一気に増えている。やはり、資源をはじめとした利益を求めて各国の動きが活発化した結果であろう。ジャーナリストであり、探検家のスタンレーが東アフリカとコンゴの探検に行った時点では、本国のイギリスはさして熱心な感心を示していなかったし、前著に拠れば、当時、イギリスの首相で熱帯アフリカの植民地経営にはあまり関心のなかったソールスベリは「私が1880年に外務省を去ったとき、誰もアフリカについて考えていなかった」と語っているくらいだ。だが、抜け目のない人物が一人いた。ベルギー王レオポルドだ。この時(1879年)すでに、ベルギーのレオポルド2世は、コンゴの商業的、産業的可能性を探らせるために秘密裏にスタンレーを隊長とする探検隊を送り込んでいるし、南アではイギリスが、ボーア人(南アに移住してきたオランダ系住民)の土地で、1867年に金が発見されたトランスバール州を併合している。

政治レベルも教育程度も高いといわれ、概して優等生だといわれた西アフリカ。一方で、その肥沃さゆえに、白人移民と地元のアフリカ人との間で熾烈な土地争奪問題に揺れた東アフリカ。また、白人移民も多く、さらに金やダイアモンドが発見されたため他の地域とも違った展開をした南部アフリカ地域。

【アフリカ最強の男】

6人が生まれ育ったアフリカ中部にはそうした地域とは二つのハッキリと違う特徴があった(1)イギリス、フランスといった先進国ではなく、ベルギー、ポルトガルといったヨーロッパの中の弱小国が統治していた、スーダンはイギリス領だったがラドと呼ばれる南スーダン南西部はナイル川とコンゴ河上流域が真近に接していてイギリスの支配も脆弱だった、むしろそうした事実を根拠にレオポルドは南スーダンを併合しようとしていたくらいだ(2)6人がやって来た大地の下には無尽蔵の鉱物資源が眠っていた、主な埋蔵資源だけでも、スーダン→石油、金、ウラン、コンゴ→金、ダイアモンド、コバルト、銅、錫、亜鉛、コールタン、ウラン、アンゴラ→石油、ダイアモンド、鉄鉱石、チタンなど、どれをとっても世界有数の埋蔵量を誇っている。この二つの事実、当時のヨーロッパの「弱小国」がそうした「無尽蔵の資源」を握っていたということが、後にアフリカの悲劇をさらに増大させた・・・・。資源は主に二つに分類される。金、ダイアモンド、コバルト、銅などの非エネルギー資源と石油、天然ガスなどのエネルギー資源だ。6人が生まれ育ったコンゴ(旧ザイール/パトリス・ルムンバ、ジョセフ・モブツ、ローラン・カビラ)、スーダン(ジョン・ガラン)、そしてアンゴラ(ジョナス・サビンビ)は、エネルギー、非エネルギーを問わずあらゆる種類の膨大な資源が眠っていた。ハビヤリマナが生まれたルワンダにはわずかな鉱物を除きそうした資源は一切ない。そのことが後にルワンダにある大きな悲劇と役割をもたらすことになる。

@とAの二つの事実を踏まえ、当時、当のイギリス本国政府はそうしたことについてさしたる関心、危機感を持っていなかったが、一方で、ダイアモンド独占会社を興したセシル・ローズをはじめとした南アのケープ植民地のイギリス人たちは、コンゴを支配するレオポルドの動きに無関心ではいられなかった。大英帝国でない国が、いや一個人が膨大な資源が眠る土地をワケもなく手に入れ支配しようとしている=Aしかもそこはローズが計画していたケープタウンからエジプトのカイロに至る鉄道建設の途中に位置している。当時、“アフリカ最強の男”と呼ばれたローズにとってそれは我慢がならなかった。

ヤマ(鉱山)の支配とスエズ運河に抜ける鉄道建設の野望、さらにコンゴの南、とくにマタベレランド(後の南ローデシア、ジンバブウェ)と接するカタンガには膨大な量の銅が眠っている、ローズはすでにここ2年で100以上の銅の露出した鉱山を発見している。カタンガはワレワレの国益の一部に加えられなければならない=iケープtoカイロ)。イギリス本国政府も他の列強に遅れを取るまいとようやく重い腰を上げ、植民地争奪へ本格的参戦を始めた。焦りを感じたローズは1890年、南北ローデシア(現在のジンバブウェとザンビア)の領有を宣言さらに勢いを駆ってレオポルドの私有地、コンゴ自由国のカタンガにまで侵入した。それは明らかにベルリン会議の取り決め違反だった。ローズがサタンと蔑称し嫌っていたレオポルドとローズはカタンガ(の資源)を巡って対立した。カタンガには銅をはじめ、ダイアモンドからウランに至るまでありとあらゆる資源が眠っていた。“この時は”しかし、カタンガの王(アフリカ人のムシリ)を一気に力で追放し、土地を占有してしまったレオポルドに軍配が上がった。この時は≠ニいうのは、それからおよそ100年後、イギリス、というよりアメリカが中心となったアングロサクソン勢力が、地元勢力――ルワンダ、ウガンダを使って、カタンガだけでなくコンゴ(当時のザイール)から、レオポルドの後を継いだベルギーはじめ、ヨーロッパ旧世界を追いだし、ヤマ(鉱山利権)の再編を強行したことをいう。その壮大なプロットの核がルワンダ虐殺から、ロラン・カビラの軍(ADFL+バニャムレンゲ/RPF〔ルワンダ愛国戦線〕)によるモブツ追放だ。

イギリス(20世紀半ば以降はアメリカも参戦)を中心としたアングロ・サクソン勢力は、アフリカ中部、とくにコンゴに眠るほとんど手付かずの鉱物資源の分捕り、ヤマ(鉱山)の再編、結果としてのヨーロッパ旧勢力の追放を策某した。

100年の時をかけた策略の原点となったのがセシル・ローズ、デ・ビアス、アングロアメリカンといった南アのヤマ(鉱山)のシンジケートだ。さらに後で出てくるRound-Table(円卓会議)の理想と取り決めだ。アフリカを支配する見えない力が少しずつその鎌首をもたげてくる。

話は前後するが、カタンガよりも以前に、イギリスはまず手始めに、当時すでに発見されていた(1867年)金とダイアモンドの利権をボーア人たち(オランダ人植民者)の手から奪うためにボーア戦争を仕掛けた、ボーア人たちの強い抵抗に遭い、自身も多大な犠牲を払わされたが、金とダイアモンドを中心とした南アの資源、利権を手に入れた。イギリスの帝国主義的、植民地主義支配の中で、そうした鉱物資源の獲得、支配はその中核であり、それを確立したのがセシル・ローズだ。それはイコール・アフリカ支配体制、支配システムの構築でもあった。ローズは1888年、ダイアモンド採掘事業からさらに大きな利益を上げるために、それまで数百あった中小の関連業者を、ヨーロッパの富豪、ロスチャイルド家の富を背景に一つにまとめ上げ、デ・ビアス(De Beers Consolidated Mines)を設立、南アのダイアモンド生産、販売の利権を独占、その後、英国南アフリカ会社を設立、多くの事業を傘下に治めた。ケープ植民地の首相でもあったローズはこうして当時のアフリカ最強の男と呼ばれるようになった。ローズの死後、アーネスト・オッペンハイマーの手によって金をはじめとした鉱物資源を扱うアングロ・アメリカンが設立された(1917年)。やがてこの巨万の富を手にした“力”は、南アを上回るさらに膨大かつ貴重な資源が眠るアフリカ中部、コンゴへゆっくりとその翼を広げてゆく。そこには頑強な抵抗を見せたボーア人はいなかったが、しかし、さらに厄介で複雑怪奇な植民地アフリカ政治の世界が待っていた。アフリカン・ポリティックスにおいてヤマ(鉱山)と政治は切っても切り離せない、お互いがお互いを必要としているからだ。

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