黒い鎮魂/ブラック・レクイエム [トップページ] > 第15回
黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第15回
【独立までの抵抗】
レオポルドの時代から独立まで、抵抗と戦いのワケは常に植民地支配体制による苛酷な抑圧、搾取、人権侵害にあった。「ラバー・テラー」はじめ、搾取と抑圧の実態についてはすでに触れてきたが、コンゴにおいてそれは抵抗と反抗の始まりでもあった。植民地支配体制に対して挑戦するワケはおよそ次の5つだ「(1)空腹と飢餓を終わらせること(2)強制耕作の廃止(3)人頭税の廃止(4)「猿」といった人種的蔑称の廃止(5)体罰の廃止」(コンゴ)、(1)〜(5)までざっと見ただけでも、支配者たちの欲の皮のツッパリ具合、そして冠たる欧米文明と、その価値観の源の怪しさが見えてくる。コンゴの人々の要求のなんと切実で、正当性に満ちていることか・・・・、腹を空かさせ、猿と呼び、言うことを聞かなかったら直ぐに暴力に訴える、自分たちをご主人様と呼ばせ、働きが悪かったら気絶するまで鞭を打つ、それが憧れるヨーロッパ文明だろうか、アフリカ人たちの苦悩と悲しみを知るがいい、誰が何時、どの様な弁済を行うのか、歴史は必ず復讐する。
コンゴ、ルバ、ルンダ、そしてクバなどの王国による抵抗が商業と交易システムの破壊力の前に力を失った後、植民地支配による本格的攻勢に対して最初に抵抗を試みたのは、当然といえば当然であるが、植民地軍と呼ばれるアフリカ人から成る軍隊(コンゴ人と西アフリカ出身者とから成っていた)だった。彼ら自身、支配者レオポルドやベルギーのお先棒を担いで、一般のアフリカ人を追い立て、暴力を振るう尖兵だった。だが、それにも限度があった。白人士官の中には好んでそうしたアフリカ人兵を鞭打ち慰めものにする者も少なくなかった。
コンゴ人部隊による反乱は1900年前後、カタンガを中心に起きた。散発的反抗から、抵抗は次第に組織化され、その参加者の数を増し、時に数千を数える時もあった。抵抗と反乱はカタンガからさらにキサンガニからイツリといったコンゴ東部へと拡がっていった。Baoni(バオニ)と呼ばれる反乱軍は時に数千の集団となって一帯を彷徨い植民地支配への抵抗を示した。バオニたちは多くのコンゴ人たちの悲しみと怒りを体現し、独立への遠い道程の第一歩を印した。反乱軍の多くはルアラバ河(コンゴ河の一大支流でカタンガに源を発し、コンゴ東部をキサンガニへと向かって北へ流れる)以東の出身者が多く、中にはアラブ・スワヒリ奴隷&象牙狩り部隊を率いた大ボス、チップ・ティップ(Tippu Tip)の部下も加わっていた。
明らかにここ東コンゴ一帯は、およそ100年後に起きた、ルワンダ虐殺を含むグレイト・レイクス一帯の大事件の時も同じだった様に、いわゆる低地、中部コンゴの政府権力、文化パワーと、スワヒリ、ナイロティック(ツチ族)といった東部バンツー、非バンツー諸部族の反中央パワーとがぶつかり合うフロントラインでもあった。
100年後(1990年代半ば)再び、そこに伝統的コンゴ中央政府を後押しするベルギー、フランスといったフランコフォン権益とウガンダ、ルワンダといった新しいエージェントを使ったアメリカ、イギリスを中心としたアングロ・サクソンパワーの権益が真正面からぶつかり合い、激しい権益、資源の争奪戦を展開した。