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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第20回
【バッド・カード】
コンゴがルムンバ、ソビエトの手によって共産化=キューバ化するのでは、と危機感を抱いたアメリカは続けざまにカードを切った。
国連の舞台を中心にことの推移を見守っていたアメリカは、ルムンバが何処までソビエト寄りになってゆくのか、そのことによってアメリカの権益(とくに鉱物資源開発、投資)が失われるのかについて読み解こうとしていた。しかし、事態はアメリカの許容範囲を超え急速に悪くなっていった。一層“共産主義化しつつあるルムンバ”にアメリカは強い危機感を抱いた。独立宣言からわずか2ヶ月余、コンゴの命運を決するような危機が訪れようとしていた。ルムンバを取り除こうと、その後今日まで中部アフリカ、グレイト・レイクスを支配してきた“ある力”が動き始めたのだ。
1960年9月5日、大統領のカサブブは突然、ラジオ放送でルムンバの首相解任を宣言、「・・・コンゴ人支持者、ベルギー、そしてアメリカによって促されたカサブブは起った」(THE STATE OF AFRICA)。すかさず、ルムンバもまたカサブブを非難、解任を要求、コンゴは一気に混乱に陥った。ルムンバ支持派、カサブブ支持派による対立、混乱は続いた。コンゴ議会内部、アフリカ国連加盟諸国を中心に二人の間の和解の道が探られた。しかしいずれも失敗した。決着はしかし直ぐに計られた。9月14日、わずか2ヶ月前、ルムンバ自身の手によって“選ばれしユダ=モブツ”が二人を抑え実権を掌握したのだ。遂に、その後1996年、ロラン・カビラの手によって追放されるまでの30年以上にわたってコンゴ(後にザイールに改名)を支配してきた独裁者が権力への第一段を踏んだのだ。問題は、誰がモブツを選んだのかだ。
東西対立の真只中、ヨーロッパでは熾烈な情報戦が展開されていた。CIAのブラッセル(ベルギー)のチーフ、ラリー・デヴリンは、1960年のはじめ、独立の交渉のためにブラッセルを訪れていたコンゴ代表団にソビエトの機関が頻繁に接触しているのを目にした。デヴリンは、ソビエトが本格的にアフリカ進出を企んでいると読んだ。直ぐに彼はコンゴ代表団の中における反ソネットワークキングを開始した。「10人から12人のリストを作り、それぞれの印象を討論した」(IN THE FOOT STEP OF MR KURTZ)。若くてきわめて有能な一人の男がピックアップされた。男はルムンバの秘書をやっていた、それがモブツだった。CIAブラッセルのチーフと後のコンゴ大統領モブツの最初の出逢いだ。さらに独立前の6月、二人はコンゴで再会した、独立後、日を置かずして不満に支配されていた軍が反乱を起こした。首相に就任していたルムンバは、軍を抑えるためベルギー人司令官ジャンセンの首を切り、モブツを参謀長に選んだ、最高司令官にはルンドラが任命された。だが後から考えればモブツは周囲が危惧し、ルムンバに注意を喚起したように確かに危険な人物であった。
1956年、一端除隊したモブツは、ブラッセルにいた、「そこでフリーのジャーナリストの仕事を始めた彼は、コンゴ国内の危険人物のリストをベルギー警察に渡し金をもらっていた」(THE STATE OF AFRICA)、「彼はベルギー情報機関の情報屋だった」(IN THE FOOT STEP…)。この時、ルムンバとモブツが出会い、親しい仲になったといわれているが、それがどのように親しい関係なのか、微妙な問題だ。この時すでに有能で“使える”人間としてモブツはアメリカ、ベルギーの二つの国から目を付けられていた、これは、モブツはすでにこの時、“ある力によって”“選ばれていた”ということなのか・・・?
若干29歳、レオポルドビルの駐留軍を牛耳っていたモブツは直ぐにカサブブ、ルムンバの二人だけでなく全ての政治家もまた中立化(無力化)し、権力を掌握し、直後の9月17日にはソビエトとチェコの代表団を追放した。この時、国連は大きな過ちを犯した、ルムンバの意思に反して放送局と飛行場を封鎖してしまったのだ、さらにその再開、使用を願うルムンバの要求を拒否、周囲を守る国連軍ガーナ部隊はルムンバの内部へのアクセスを禁じた。その一方でカサブブには対岸のコンゴ・ブラザビルの放送局の使用を容認していた。専門家によって見方に若干の違いはあるものの、モブツのクーデタの背後に、キンシャサのアメリカ大使館、CIA、ベルギー顧問団、スエーデン人の国連軍司令官、カール・ホーン、同副司令官でモロッコ人のベン・ケタニなどずらりと西側人脈がいたとされる。モブツはCIAを通して多額の金を受け取っていたという、その後もモブツはこうした金によって私的蓄財を重ねていった。
モブツのルムンバを追放し、さらに亡き者にしようとするそれは限りなく“陰謀”に近い。モブツによるクーデタの約1ヶ月前の8月半ば、アメリカの国家安全保障会議において大統領のアイゼンハワーはCIAにハッキリとルムンバ抹殺を公に認めている。継いで同月26日には、CIA長官、アレン・ダレスはレオポルドビルのCIAチーフ、デヴリンに対して「もしルムンバが権力に居座り続けるならば、悪くて混乱、最悪、コンゴは共産主義国家となり、国連の威信を傷つけ、自由主義国家体制にとって最悪の結果を生むことになる。ルムンバの追放は緊急且つ第一の目的だ≠ニいう電報を送った」(THE STATE OF AFRICA)。モブツによるクーデタが成った後も、駐コンゴアメリカ大使、ティンバーレイクは国連に対してルムンバの逮捕を要求している。