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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第25回
【ハビヤリマナ】
1937年生まれのハビヤリマナ(フツ族)はこの時、22歳だ。コンゴのブカブ、キンシャサ辺りで、勉学に励んでいた。政権が変わり、多くが殺され、多くが難民として追われたことをどう見ていたのか、もしかすると、パワーに敏感なアフリカ人は、当然のこととしてさしたる動揺はなかったかもしれない、ただ、祖国の行く先に対する何らかの思いは当然あったと想像される。フツ族のリーダーたちによって多くの政党が結成された。フツ(被支配者)の支配者ツチに対する積年の恨みの現われか。その中でも、後に大統領を務めるグレゴリ・カイバンダはMDR★★を結成、独立前後のルワンダ政治をリードした。名著「ルワンダ・クライシス」の著者、プルニエによれば、逆転したツチ・フツの状況は、「多数が支配する民主主義と即独立」をめぐって争われ、新しいフツの支配者たちによって、すでに貧しいフツたちは対ツチ戦、ツチ抹殺のための”battle-axe”(戦う斧)として扱われたという。ツチ・フツ、勝者と敗者、ツチ・フツ、それぞれの中の富める者と貧者たち、そしてその芯を貫く”人種的優越神話”、関係は幾重にも錯綜しルワンダ問題(後の”虐殺”も含む)のストレートな理解を拒んでいる。
北部ルワンダの裕福な農家の息子として生まれ、野心に満ちた若者――ジュベナル・ハビヤリマナは、自分の属するフツが権力を掌握したのを見るや、将来のコースを変えた。それまで学んでいた医学を捨て、若者はキガリの士官学校に入った。後に民主化の圧力、嵐の中で独裁者呼ばわりされた男は、しかし、その有能さにおいて間違いなく抜きん出ていた。士官学校を終え、ルワンダ・ナショナル・ガードに入隊した彼は直ぐに頭角を現した。25歳にして参謀長、さらに、司令官にまで登りつめた、だが、その才気こそが、後に彼を死に追いやったのかもしれない・・・。28で、時のルワンダ大統領グレゴリ・カイバンダに見出され、国防大臣に就任、やがて”ツチ・フツ戦争”の歯車はその回転速度を増し、ハビヤリマナ自身もまたその歯車の一部と化し、深く戦いの渦に巻き込まれてゆく。カイバンダ大統領に見出された彼ではあったが、次第にフツ族内部の主導権争いに引き込まれていった。大統領は南部、中部のフツ族の利益を代表していた、しかし、ハビヤリマナをはじめ北部、西部出身のフツ族は長い間そうした支配に根強い反感を持っていた。
1973年、ベルギー、フランス、英米など西側からの支援を受けたハビヤリマナ(当時国防大臣)は、権力を奪取、カイバンダ大統領らを追放、クーデタを成功させた。軍、内閣は全て彼に忠誠を誓うフツ族シンパで固められた。ハビヤリマナのクーデタによって作られた”第二共和国”、それは北部フツの南部のフツに対する復讐でもあった。さらに2年後、その後自らの手でルワンダ政治、虐殺事件にも深く関係してくる政党――MRND(National-Revolutionary-Movement for Development)を作った。MRNDはルワンダの中で唯一、許された政党であった。この世に生を受けると同時に全てのフツ族は強制的に政党員として登録された。こうしてハビヤリマナ独裁の基礎は固められ、80年代を通じて行われた選挙において、ハビヤリマナはすべてに圧勝した。この頃のルワンダは安定して、一見順調に見えた。だが、激しい憎悪と戦いの種子は確実にルワンダの大地に播かれて行った。
実際オレは、80年代、二回ほどテレビの番組ロケでルワンダに足を運んでいる。アフリカでは珍しく舗装道路が多く、きちんと整備され、街もどことなく整っていた印象が強い。ただ、ルワンダが内に抱えていた爆弾の破壊力(ツチ・フツ対立)について、一介の旅人が外から見た印象だけでは知るべくもなかった。
プルニエはやや皮肉を込めて書いている。「全ては慎重にコントロールされ、そして清潔で秩序だっている。農民(フツ)たちは勤勉で、支配者(ツチ)たちへの感謝を忘れない・・・・、ベルギーをはじめとしてドイツ、アメリカ、カナダ、多くの援助国もルワンダの状況には満足していた」。そうした表向きの安定の中で教会は重要な役割を果たしていった。
小さく、貧しいながらもまどろみの中に”安定”を装っていたルワンダだが、しかし、ほころびは早くも80年代後半にやって来た。主要産業であり、外貨獲得の担い手として政権の基盤を支えてきたコーヒーの価格が大幅に下落したのだ。権力維持の基盤が崩れたのだ。残されたルワンダの主要収入は国際社会からの援助であった。直ぐにその配分を巡ってフツ族権力内部の戦いが始まった。だれが、あるいはどのグループがそれを握るのかは
ルワンダの行方にとって決定的に重要だった。フツ族の間の南北対立、援助資金の争奪、さらにルワンダ政治を難しく、かつ複雑にしたのは、大統領周辺の権力、主導権争いだ。ハビヤリマナ自身は大統領という地位にありながら、しかし、地域における権力基盤は弱かった。それは彼の出自(家柄)と関係していた。一方、大統領夫人のアガサ・ハビヤリマナは、大統領と比べると、格段に出自をバックとした基盤は強力だった。アガサは近親、ギセニ出身者で固めた”AKAZU(ルワンダ語で小さな家を意味する)”と呼ばれる権力内サークルを作った。AKAZUは虐殺事件の時、大きな役割を果たしたといわれている。主要メンバーに、虐殺開始直後、主導権を握ったテオネステ・バゴソラ大佐をはじめとした軍人、さらに有力政治家たちも加わっていた。
コーヒーの下落、旱魃、人口増、狭い農地、さらに国際援助資金の争奪、フツ族権力内部の熾烈な争い等々、ルワンダ政治は最後の沸点を求めて完全に煮詰まっていった。後戻りできない一点に向ってルワンダは転げ始めた。90年代初めには、強い危機感を抱いたハビヤリマナはフランス大統領であり、友人でもあるミッテランの助言を入れ、ルワンダに俄仕込みの複数政党制を導入した。だが永遠にフツ族が支配する王国を守り続けなければならないと信じている者たちにとってそれはツチ族に対する妥協と映った。ルワンダ政治は結局、何者かによって創り上げられたツチ・フツ人種神話(いずれかが優位であるという)の都合のいい解釈を基にしたツチ・フツ間の権力闘争である、と同時にツチであれ、フツであれ権力を手にした側内部の権益の配分を巡るさらに激烈な主導権争いであったといっていい。
フツの人種的優位の確立、多数派独裁民主主義の確立、ツチの政治からの一切の排除によってフツ族支配を完成させた者たち――フツ族過激派、あるいはハード・コアにとって、妥協的道をとり始めたハビヤリマナを見る目は次第に厳しく変化していった。