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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第2回
【ジョン・ガラン墜死】
2005年、8月初めのある日オレは渋谷のSカフェでコーヒーを飲んでいた。拡げた英字新聞の記事に釘付けになった。そこにはSPLA(スーダン人民解放軍)議長、統一スーダン政府第一副大統領ジョン・ガランの墜落死が報じられていた。一瞬わが目を疑った。ガランとはその年の1月に、南部スーダンのルンベックで会ったばかりだからだ。2005年1月9日、22年間に及ぶ長いスーダン内戦に終止符を打つべくケニヤの首都ナイロビで行われた平和条約(CPA/包括的平和条約)の調印式からさらに2週間後、オレはガランを追って一人、南部スーダンの要衝、ルンベックまで足を伸ばし、車の窓越しにではあるがコメントまで取っていた。それからわずか6ヶ月、北部、カルツーム政府と国造りについての難しい交渉をまさに行っている最中だった。新しいスーダンに向って死ぬ理由は微塵もなかった。記事はウガンダの大統領であり盟友でもあるムセベニ氏との会談の後、ムセベニ氏が提供したヘリコプターに搭乗、南部スーダンに戻る途中、機はウガンダとスーダンの国境辺りで墜落、ガラン氏はじめ同乗の13人全員が絶命したと報じていた。
「・・・・、何でこの時期に、墜落死だ、何故だ」、しかも悪天候による事故死だという。機は、話が本当なら整備も万全のロシア製M-172だったという、悪天候による墜落はほとんどありえない。その時、ある出来事と情報が脳裏をよぎった。「出来事」とは、94年4月、ルワンダ虐殺開始のスイッチを入れたハビヤリマナ、ルワンダ大統領機撃墜事件だ。午後8時過ぎ、暗闇の中着陸態勢に入った機に向って至近距離から2発のミサイルが発射され、機は墜落炎上、大統領はじめ全員が死亡した。「情報」とは、調べものをしている時、撃墜≠ニいうのは、特にアフリカにおいてはれっきとした暗殺の常套手段であるということが記されていたことをいう。大統領機撃墜、暗殺の常套手段・・・、その他おもなところでは、1961年のコンゴ内戦の時、カタンガの和平調停に向った当時の国連事務総長ハマーショルド氏の命を奪った飛行機の墜落、さらに86年のモザンビーク大統領、サモラ・マシェル氏の命を奪った飛行機の墜落等がある、いずれも事故、事故死として報告されている。
【会議と夜】
航空機が絡んでいるという事は別にしてガランとハビヤリマナの死にはある共通点がある。
「会議」と「夜」だ。両者ともわざわざ遠くの会議に出かけている、とくにハビヤリマナの場合、ツチ族に対して妥協しすぎたというフツ族過激派からの強烈な突き上げ、政権維持への危機感、さらに暴行、略奪を繰り返すフツ族過激派を抑えきれないハビヤリマナに対する、周囲、特に国際社会からの批判をかわすために問題解決になるとも思われないダルエス・サラーム〔タンザニア〕の「会議」にわざわざ出かけたといわれている、さらに会議の設定事態にもどこか無理があり、さほど緊急性がなかったとも言われている。
しかも、この会議の胡散臭さ、危険性を嗅ぎ取った他の招待者、モイ、ケニヤ大統領、モブツ、ザイール大統領、その他にも各国の要職にある関係者などは、情報機関からの通報もあり直前に会議をキャンセルしている。さらにハビヤリマナの場合、この飛行機(ハビヤリマナの長年の友人であるフランス大統領ミッテラン氏から贈られたMystere-Falcon-50)に乗るのは危険なので止めろという情報機関からの警告を無視して乗ったとさえいわれている。余談であるが、このタンザニアの情報関係の人間(大尉)は後に、交通事故で亡くなった。その妻は事故ではなく殺されたのだと主張したが受け容れられなかった。ガランの場合、会議の内容もハッキリしないが、またさほど緊急性があったとも思われない。1月9日の和平調印式に出席していたムセベニに対する返礼もあったのかもしれない。
会議は首都のカンパラから西へ300キロほど行ったムセベニ大統領のランチ(牧場、別荘)で行われた。恐らく、今後のスーダン和平の行方、経済開発、さらに20年近くにわたってウガンダ北部からスーダン南部にかけてゲリラ活動を展開する武装集団、LRA〔神の抵抗軍〕への対応などが話し合われ、ムセベニに対してガランは、スーダン側にあるLRAの基地を叩き、ゲリラを掃討すると語ったといわれている。
もう一つは「夜」の闇だ。ハビヤリマナ、ルワンダ大統領の場合、ルワンダの首都キガリにあるカノンベ飛行場の上空に差し掛かったのがだいたい8時過ぎ(撃墜の正確な時間は諸説あるがだいたい8時過ぎから8時半の間だという)だとして、会議の終了後ダールを飛び立ったのは夕方6時半前後だと思われる。遅いので引き止められたという報告もあるが、何故か大統領は急いでいたという。また会議に同席していて同乗することになったブルンディ大統領(シプリエン・ンタリャミラ)に気を使っていたとも言われている、ブルンディ大統領の飛行機はプロペラ機で、ハビヤリマナのジェット機よりもかなりの時間がかかるので、同乗を勧めた都合上ハビヤリマナ大統領はダールに泊まる訳にはいかなかったのかもしれない。アフリカの紛争地帯、或いは危険なエリアでの夜の移動は原則タブーだ、これは大統領だろうが、オレみたいな一介のフリーのジャーナリストだろうが常識であり、原則である。ハビヤリマナはこの原則に背いたことになる。もっと他に大統領を帰らせた理由があるのだろうか。
SPLAのリーダー、スーダン統一政府第一副大統領のジョン・ガランの場合は、さらに掟破りなことをしている。ある報告によれば、会談が終わった後、ガランはムセベニの提供したヘリコプターでムバララの奥にあるランチを出発、一端エンテベ空港に立ち寄り、燃料補給した後、午後8時に北のスーダンのジュバに向けて再度離陸したという。ビクトリア湖の北辺に面したエンテベから南スーダンのジュバまで直線距離にして約600キロある、ヘリコプターで約2時間前後の飛行だ。ムセベニの手元に届いたばかりのヘリコプターにとって初めてのロング・フライトだったという、だがそれにしても夜の8時の出発は遅すぎないか、ガランは帰心矢の如しで、遅いので泊まろうという気にはならなかったのだろうか、さらにムセベニは引き止めなかったのか。二人の死の前後に共通しているのは会議の設定と夜の闇だ、かれらは、何故、会議に出た後、かくも遅い時間に帰ろうとしたのか、誰が、何が彼らを急がせたのか、どうしても帰るよう口添えをした者でもいるのだろうか。この二人の死については後でもう少し詳しく検証してみる。