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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第3回
【ネルソン・マンデラ】
もう一つの執筆動機、それは死んだ二人――ジョナス・サビンビとジョン・ガランに直接逢っていることだ。94年、ルワンダで殺戮の嵐が吹き荒れようとしている直前の3月、オレはアンゴラにいた。ニュース・ステーション(当時)に出した企画が、出来高でOK(つまり撮ってきたものが良かったら買いましょうというかなり割に合わない条件、この時は制作会社が取材費を肩変わりしてくれたので現地取材ができた)が出たのでアンゴラに向った。その前年の93年には南部スーダンを取材している。その前はソマリアだ、アンゴラもまたスーダンやソマリアに劣らず、危険で紛争の火種が絶えなかった。
オレは、「潜入!アンゴラ、地獄の最前線」というタイトルを打ってテレビ局に企画書を出した。東西冷戦の枠組みが崩れた後も、依然政府軍(MPLA)と反政府ゲリラ(UNITA)との間で激しい戦闘が繰り返されていた。冷戦時代の反ポルトガル植民地闘争から、部族問題も含めた主導権争いへと変化していた。戦いの最大の焦点は世界最大級の埋蔵量を誇るダイアモンド、そして埋蔵量アフリカ第3位を誇る石油資源の争奪、支配だった。何故か、オレには、日本ではほとんど報道されず、知られていないそうしたアフリカの紛争の中にこそ、実は世界の最前線の問題が山ほど詰まっているという確信があった。今でもその確信は変わりないが、しかし一向に日本がそのことに気付いてくれない・・・・。
そうした意味で、アンゴラもまたスーダン、ソマリアに劣らず魅力的紛争地帯の一つだった。当時の一般的国際社会の見方は政府軍であり、社会主義国家の建設を目指すMPLA〔アンゴラ人民解放運動〕に正当性を見出すものが多く、支持者も多かった。それに対し、ジョナス・サビンビが率いるUNITAの方は、南ア、ザイール(現コンゴ)、さらにはアメリカからの武器を含む多大な支援を受けた、いわば帝国主義勢力の手先、パペット(操り人形)として見られ、悪役のイメージが強かった。しかし、これは当時の南アフリカのネルソン・マンデラが率いるANC(アフリカ民族会議)が決して理想に燃えた正義の集団ではなかったのと同様、必ずしも真実とはいえない。
南アの場合は、アンゴラのUNITAに相当するものとしてブテレジがリーダーを務めていたINKATHAがある。INKATHAもまた、UNITAとMPLAの関係同様、ANCの正義に対しての悪として見られがちだった。こうした事は報道のあり方と大きく関係しているが、事実と実態は必ずしもそうとはいえない。90年代初めとくにマンデラがロベン島から釈放された後、マンデラの顔を見ただけで涙を流す人や、ANC讃歌を歌う人をこの日本でも見たものだ。確かにネルソン・マンデラが不屈の闘志に満ちた稀有の人物である事は誰しもが認めるところだ、だが世界をあざなう無数の糸はそんな単純に、また一面的に織られていないこともまた知るべきだ。そのもう一つの顔はやがて数年後、ルワンダ虐殺に絡むコンゴ戦争の時に現れる。
90年5月、マンデラが27年ぶりにロベン島から出てきたほぼ3ヵ月後、オレはあるテレビ番組の取材で、インタビューを録るためにソウェトにあるマンデラの自宅を直撃した。犯罪が多発することで有名なアフリカ人スラム街ソウェトはすでに暮れなずんでいた。目の前に、ひと際大きな赤茶けた色をした邸宅が建っていた。事前にJ・バーグにあるANCのオフィスで話は通してあったので、門番に来訪を告げる、直ぐにボディガードが出て来て、30分だけだぞと念を押された。前にもJ・バーグの本部で取材を申し込んだのだが、たまたまそこに居合わせたボディガードに「お前のような男がインタビューするよりも、マンデラは若くて美人の女が好きだ」と言われていたので、今回はしっかりと、飛び切りの若くて可愛らしいインタビュアーを用意してきた。イギリス人の彼女も伝説の男に逢えるということで歓びの中にも少し緊張していた。ボディガードの忠告通り確かにインタビューは和やかな雰囲気で行われた。マンデラ自身の顔から笑顔が毀れていたのが印象的だった。27年間の幽閉生活にもかかわらず、表情は穏やかで、落ち着いて見えた、ただ、時折、体全体に疲労のようなものが見えたが。あと特に左足の下肢の部分が全体に太く腫れ上がっていたのが痛々しく見えた。背後の大きなテーブルには時折、妻であり、同志でもあるウィニィ・マンデラが顔を見せていた。
【ジョナス・サビンビ/アンゴラ】
話が横に逸れてしまったが、実像とはかけ離れた人物像を描きがちなマスコミ報道のせいもあってか、オレはMPLAのリーダーであり、周囲の受けもいい大統領のドス・サントスよりも一身に悪役を買わされているサビンビのほうに何か感じるものがあった。取材に関しては、だから初めから反政府勢力(UNITA)側に入ろうと考えていた。
アンゴラは遠かった。J・バーグからナミビアの首都のウィンド・フークに飛び、そこからさらにアンゴラの首都のルアンダまで飛ばなければならない。さらにウィンド・フークでアンゴラのビザを取るのに1週間(これは飛び込みでいったも同然で、ビザの取得に当たってナミビアのユニセフにお世話になった)、ルアンダに着いた時は相当疲れていた。
長期の内戦による疲弊のためか街はどこか荒んでいて、話に聴いていたかつての大西洋に面した港町の活気と美しさは影をひそめていた。ただ海岸を縁取る椰子の並木がかろうじて過去の植民地の栄華の面影を残していた。そんな寂しい風景を破るかのように海上には海底石油採掘のための鉄製の巨大なリグ(櫓)が至るところに建っていた。鉄の怪物を背景にストリート・チルドレンたちがゴミをあさり、残飯を食らっている光景が目に焼きついている。
富と貧しさ、勝者と敗者、いや犠牲者たちがこれほどまでに強烈なコントラストを放っている世界を見たことがなかった。今のナイジェリアではないが、資源=石油は決して人々を豊かにしない、それは悲しいアフリカの鉄則のようにも思えた。安くて適当な宿もない、安い飯屋もない、とにかく暮らしにくそうな街だった。
情報相から取材許可をもらい、病院、近郊の国内難民キャンプなどを取材した後、WFP(世界食糧計画)がチャーターしたロシア製の巨大なアントノフ輸送機に乗って、UNITAの本拠地があるフアンボ(Huambo)に飛んだ。アントノフは完全な輸送機だった、オレが座るスペースはなかった。仕方がないので援助用メイズ(もろこし)の袋の上に乗って時間を過ごした。物凄いエンジン音が不安と焦燥にさらに追い打ちをかけた。
フアンボの街は廃墟に等しかった。崩折れたビル、空爆で破壊された建物、瓦礫に覆われた道、建物の壁に撃ち込まれた銃弾、無数の弾痕が建物全体を包んでいる、バス停の細い鉄パイプさえも弾痕によって撃ち抜かれていた。カメラを回しながら建物の中に入ろうとした時、「ストップ!」激しく呼び止められた、「マイン(地雷)!」、一瞬、オレは飛び上がるようにして出た。フアンボはUNITAとサビンビを支えるオビンブンド族の本拠地だ。辺りには肥沃な大地が広がり戦争さえなければ豊かな実りが約束されている。だが今は違う、戦いが全てを奪っていた。アンゴラ内戦はイデオロギーの戦いである前に、二つの主要部族間の主導権争いでもある。フアンボを中心に暮らすオビンブンド族と、首都ルアンダを中心として海岸線に生きるクレオル(ポルトガル人との混血、急進的知識階級が多い)、ムブンドスとの戦いだ。
薬も底を尽き、医療器具さえない病院のベッドには地雷で手足を失くした男たち、女たちが救いの手を待っていた。避難民センターには、幸運にも5歳まで生き延びることができた子供たちが、母の胸にすがり付いていた、子供たちは薄い胸からかろうじて搾り出される母の乳を飲んでいた。
フアンボに来てから、オレはある人間を通じてサビンビ議長へのインタビューを申し込んでいた。フアンボに入ってから4日目、夕方の4時に来いという。迎えの車に乗って目的の家まで行った。道路に面し、ちょっとした垣根に覆われた何の変哲もない平屋の家だった。中に通されソファに座って待った。1時間、2時間、そして3時間、何の動きも、また人の出入りもない、ただ待つしかなかった。セキュリティ的事情にちがいない。24時間、サビンビ議長には暗殺の危険が付きまとっている。始終居所を変えているともいわれている。4時間待っても議長は現れなかった。本当に逢えるのか、不安がよぎる。夜10時、6時間ほど経過した時、隣の部屋の扉が開いた、「入れ」という。狭い部屋には大きなテーブルが一つ、さらに正面の壁にはUNITAの象徴である鶏が中央にデザインされた大きな旗が張られていた。しばらくして巨躯を運ぶようにしてジョナス・サビンビ議長が現れた。直ぐにカメラを回しインタビューに入った。30分ほどの短い時間では込み入った話はできない。戦うわけ、現在の状況、和平の見通し等々聞いた後、オレは次のように聞いてみた、
「子供たちは国の未来だという、しかしこの目で見たのは、そうした未来たちが戦いの犠牲になっているという現実です、このことについて一言お願いします」、
両腕の肘を机の上につき、逞しげな指を組むようにして議長は答えた。質問がフィットしなかったのか・・・・
「それは分かっている、しかしこれは戦いなのだ、できるだけそうした子供たちの犠牲は少なくしたいが、どうにもならない時もある」、これはほとんど答えになっていなかった。若い頃、毛沢東にも傾倒し、中国にまで渡り軍事的素養を身につけ、30年以上戦い抜いてきた戦術家、戦略家、そして稀代のカリスマの頭の中は、子供さえ、戦略的一パーツでしかなかったのかも、しれない。ただサビンビに逢った多くのジャーナリスト、政治家がいう、ある種のオーラが出ているというのは十分に頷けた。はるばる遠い日本からやって来たオレに対する接し方も暖かく、さりげない思いやりが感じられた。
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だが、オレがフアンボの隠れ家でインタビューをしてから18年後の2002年2月22日、ジョナス・サビンビはアンゴラの戦場で猛烈な銃弾を浴びて斃れた。頭だけでも15発、さらに手足にも多くの銃弾が撃ち込まれていたという。かつての取り巻き、支持者たち――南ア、アメリカの姿は何処にもなかった、それどころか、南アに至ってはイスラエルの特殊部隊とともに攻撃側のMPLA軍とともにサビンビを攻撃していたという情報もある。何がサビンビを追い詰め、誰がサビンビを殺したのか、鎖に繋がれた6人の中で初めてオレが直接に会ったアフリカ屈指のカリスマは、「見えない力」によってバッサリと切り捨てられ、葬り去られた男の一人だ。