黒い鎮魂/ブラック・レクイエム [トップページ] > 第11回
黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第11回
◆闇の彼方から
【3人】
ここはパトリス・ルムンバという人物の歴史的、政治的意味と役割を論ずる場ではない、またそういった準備も能力もない、ただ、演説からわずか7ヶ月後の彼の死(暗殺)が、その後6人を繋ぐ一番初めの鎖だったことだけは強調しておきたい。歴史は単なる因果関係の積み重ねなのか、また歴史の必然と偶然の割合は何%ずつなのか知るべくもないが、パトリス・ルムンバの死について語る時、3人の人間を挙げなければならない。
3人とはイギリス生まれのアメリカ人ジャーナリストであり、アフリカ探検家としても知られたスタンレー(ヘンリー・モートン・スタンレー、1841年、イギリス、ウエールズ生まれ)、そして抜け目なくスタンレーを使ってアフリカ(コンゴ)の富を独占しようとしたベルギー王、レオポルド2世(1865年王位に就く)。レオポルドの存在、個性、そして型破りの欲望が、「アフリカの力の均衡(ヨーロッパ各国の/筆注)をほとんど独力でくつがえし、この暗黒大陸におけるヨーロッパ植民支配の恐るべき時代を到来せしめたのである」(コンゴ河)。そして3人目が、「アフリカ最強の男」、セシル・ローズ(1853年〜1902年)、ローズはイギリス、スコットランド生まれ、17歳で健康上の理由から南アフリカに渡る。スタンレーが私生児でウエールズの救貧院で育ったのに対し、ローズは牧師の子だった。ローズのアフリカへの野望がやがて時代を下って、アフリカ中部、コンゴを舞台に繰り広げられていた旧世界(主にフランス、ベルギー)による支配、利益の分捕り合いと真正面からぶつかり、挑戦していくことになる。
ルムンバ(1925年〜1961年)の死の向こうには、この3人の強烈な利害関係を中心とした出会いがあった、ルムンバもまた直接的にではないが、やがてこの3人と出会い、やがて3人が張り巡らしたネットワークの呪縛の中に絡め取られ、堕ちてゆくことになる。
ルムンバが激説した「猿」がどんなサルだったのか、それは、レオポルドとスタンレーの出会いから始まる。
【約束の出会い】
それはしかし猿以下の人間の話だった。奴隷狩り、奴隷制度という人間の暗闇が、イギリスの一部の人間たちの努力によって表面上、ようやく下火になったかと思う間もなく、アフリカには次の悲劇のシナリオが用意されていた。ある人間の知恵が、遠く離れた普段何も関係のない者たちに地獄の悲劇をもたらす。その知恵が巨万の富をその人間にもたらし、知恵をもたらされた人間たちが地獄の苦しみを味あわなければならなかったとしたら、そこに公平な裁き人は現れないのだろうか、少なくとも、コンゴ、いやアフリカの歴史には誰一人として現れなかった。コンゴの地獄は、19世紀末、アイルランドの獣医が自分の息子のためになんとか、スプリングよりももっとスムースな回転をする自転車の車輪について考え始めた時から始まった。男の名はジョン・ダンロップといった。ダンロップは長い考えと試行錯誤の末、空気で膨らむゴムタイアを考え出した。さらに1891年、エドワルド・ミシェランがタイアの特許を取得すると、直ぐにゴム・ブームがやって来た。当時、世界最大級の野性ゴムの産地、それはコンゴだった。型破りの欲望、ズル賢いくらいの先見性を当時としては持っていたレオポルド2世、1885年、すでにコンゴは「コンゴ自由国」として、欧米列強からもベルリン会議で認められたレオポルド個人の私有地だった。レオポルドは昔からの地元民の土地の権利を無視し、無住、無使用というラベルを勝手に貼りほとんど自分の所有地に変えてしまった。
「レオポルドにとってゴム・ブームはGodsend=神の贈り物だった」(レオポルド王の亡霊/アダム・ホスチャイルド)、すでに巨万の富は約束された。相変わらず象牙の需要は落ちていなかったが、そこに新たににゴムが加わったのだ。1879年、コンゴにスタンレーを遣わし、地上に実績を築いておいたことがここに来て見事に当たったのだ。リビングストン博士との出会い、コンゴ河との遭遇など、それより以前数度の困難なアフリカ探検によって数々の探検的成功を収めていたスタンレーは、当初、母国イギリスにコンゴを初めとしたアフリカ開発を推し進めてもらうつもりでいた、しかし皮肉にも、当時の母国イギリスはコンゴにほとんど関心を示さなかった。それは、スタンレーが救貧院出の私生児であるという理由だけでもなかった、事実、スタンレーよりも以前に身分のしっかりした大英帝国陸軍中尉キャメロンのアフリカ内陸探検と、その忠言でさえも意外と冷淡に扱われたからである。一度はレオポルドの本格的コンゴ探検の誘いを断ったスタンレーであったが、二度目に口説かれた時には、違った夢をそれぞれ見る覚悟を固めた。まるで1884年のベルリン会議に間に合わせるかのように、またゴム・ブームの到来を待っていたかのように、1881年、スタンレーはコンゴの探検、調査から戻り、レオポルドは列強会議へ出席した。この時の、スタンレー、レオポルドの出会いが、さらにそれから約70年の後に「猿」発言を吐いたルムンバとの出逢いを用意することになる。何故「あなた方の猿ではない」と言わしめたのか、何故「歪んでいた」のか、それは次の章に出てくる