「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [1]
暗く風が通らない、15人の若者たちの熱気が狭い部屋を埋めている。学生たちはただ一人の男を取り囲み彼の話を聞いている。時折、教授で引率者の甲斐が英語で質問をする。オレはその傍らの狭いスペースでカメラを回している。
誰かが言った「トタン屋根の地平線」がどこまでも続くここはケニヤ、ナイロビのキベラ・スラム。仙台市の人口にほぼ匹敵する100万を越す人間たちが生きるアフリカ最大のスラムだ。
4軒目に訪ねたフィリップの家でオレは男の言葉に改めて驚きを感じると同時に、アフリカ、いや世界と人間の抱える問題の根深さ、深刻さに言葉を失った。
「一日いくらくらいの収入があるのですか」
「わたしが手にするお金は一日50シリングほどです」
「どんな仕事≠してもらうのですか」
「他人の家の床を拭いたり、掃除をしたりしてです」
「・・・・・・・」
オレには次に言うべき言葉が無かった。
50シリングは約65円だ(1ドルは約70シリング/90円)。
よく本やデータで目にする一日一ドル以下の生活、目の前にその現実があった。
ケニヤの旅の最後の日、それぞれの感想を話していたとき、学生の一人が
「いろいろとありますが、少なくともわたしはここ(スラム)で生まれなくて良かった」と言った。もちろん、オレタチの誰一人としてその言葉を否定できるものはいない、弱く脆い人間の運命にとって、何時何処で生まれるかは決定的といっていい。それほど目の前にある現実は圧倒的だった、少なくとも「オレ」には・・・・、だが若い「カレラタチ」にとって、それは非現実的=A俄かには受け入れ難い現実=Aあるいはすでにテレビなどどこかで視てしまった、追体験≠セったのかもしれない。そこにオレとカレラタチの人生の埋め難い差もまたあるのかもしれない。
オレタチは拓殖大学、甲斐ゼミの学生を中心としたアフリカ・スタディツアーの仲間たちだ。昨日の午後、エミレーツ航空で日本から着いたオレタチは今朝からナイロビのキベラ・スラムを回っていた。キベラ・スラムでエイズ患者たちの生活支援をしているNGO、「KICOSHEP」(16年間創設、キベラ・スラムで最初にHIV/AIDS問題に取り組んだ)代表のアン・オティ女史の話を聞いた後、途中のスーパーで買い込んだドネーション用のウガリの粉袋を持って患者の各家を訪ねていた。最後がフィリップの家だった。男の狭い部屋の壁にはオバマ大統領と首相のオディンガ氏の写真が貼ってあった。せめてもの彼の明日の世界へと繋がるそれは希望なのかもしれない。オディンガ氏の写真が貼ってあるということは彼がルオ族≠ナあることを表している。オバマ大統領の父もまたケニヤ西部、ビクトリア湖の近くで生まれたルオ族だ。大統領のムワイ・キバキ氏はルオ族と敵対関係にあるキクユ族の出だ。スラムの中にもハッキリと対立する部族関係が存在する。
一日65円でスラムで生きるHIV/AIDS患者フィリップにとって、第44代合衆国大統領、バラク・オバマの存在がどれほどの輝きを持っているのか、オレには知る術もない。
しかしオレはそこに何か人間の底を流れる苛烈な「絆/キズナ」の輝きを感じた。部族の一員として男には常に絆≠フ大義に殉じる覚悟はできているにちがいない。たとえ弱くても(経済的体力的に)男には最後に帰って行く場所がある。日本の男たちには何が残されているか。さしずめ会社か、いや家族かもしれない、少なくとも男たちに今、命を捧げる日本はない。