「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [5]
過去4回をざっと巡ってやっと2009年に戻ってきた。オレはこないだ参加者の一人と新宿で飲んだ。その時言った。何故か、今回、「キベラ〜マサイマラ〜IDP・・・・」の旅くらい心に残る忘れ難いスタツアもなかったと、その人も夢に出てきた言った。
きっとみんなもそうなのかな、そんなことオレが言うのは恥ずかしいが。
初めて参加した人は比較の仕様がないかもしれないが、それでも一体どうしてだろうと、考えてた。キベラの光と影がよかったのか、ホントに光と影が射していた、空気の澱んだ薄暗い部屋の中、心までもがいかれてしまいそうな空間、重すぎる悲しみ、でも一歩外に出るとそこには溢れんばかりのアフリカの光が溢れていた、ガキどもが「ハワユ、ハワユ」って、ゴミの山の中で歌っている。タウンにでも繰り出すのかちょっと小奇麗な格好をした兄ちゃんたちがゴミとドブ水を避けるようにすれ違う。
代表のアンのあのエナジー、そしてクレバーさはなんだ。プレゼン、メッセージ、そしてファンド・レイズ(金集め)、戦略的ビジネスマインド。アフリカ160回のオレも改めて元気をもらった。
翌朝、スタンレーホテルの前に横付けされた3台のミニバスに15人が分乗した。オレタチはマサイマラに向けて出発した。途中のビューポイントでこれから向ってゆくアフリカ大地溝帯に向って挨拶、マサイマラとは、マサイ語でspotted(斑点)≠ニいう意味らしい、思い返して欲しい、そう言えば場所によってアカシアの木々とか、薮の塊が点在していたのを、もっと北へ行くとそれがさらに顕著になる場所がある。マサイマラの旅についてオレはいちいちここで書かない、書きたくない気がする、それは、あの景色、風と空気とそして光りのすべてをみなそれぞれが心の中に焼付け、そっとしまっているのではないかと思うから、オレが下手な文章で書くことではない。唯一つだけ、書いておこうと思うことがある。それはライオン・グラス≠ノついてだ。覚えていると思うけど、大草原を覆うように明るいブラウン色の草が何処までも拡がっていたのを・・・・、正式にはレッドオートグラスといい、主にヌーやシマウマたちの主食となる草だ。ヌーは根っ子の近くを、シマウマは中間をそれぞれ食べ分けているという。ライオン・グラスが風になびくとき、朝日に輝くとき、午後の逆光に光るとき、そしてそれが夕陽に赤く染まりその上をサバンナの風が渡ってゆくとき、アフリカはここに極まる。何故ライオン・グラスというのか、それはライオンたちが狩をするときにその草むらに身を隠し、獲物たちに気づかれないように少しづつ歩を進めてゆくからだという。
あるとき、オレは友達と話していた。もし新宿辺りで小さな飲み屋をやるとしたら「難民キャンプ」っていう名前の店にしたいなあ、そして店のメイン・メニューにライオン・グラス≠ニいうカクテルを作る、ベースはもちろん夕方のサバンナ色のビール、それに何か強い酒を混ぜ、アフリカの夕陽の代わりに小さく赤いフルーツポンチ?を入れる。店のメインはビールとラム酒、そして帰り際には少しばかりシャッキットしてもらうためにエスプレッソ・コーヒーを出す。食事もシンプル、メインは炭火でこんがりと焼いたラム肉のスペアリブ、きめてはそれにアフリカから取り寄せた岩塩をかけて食べる。ワイルドでアフリカを思い出すことまちがいなし。以前、前にも出てきたロキチョキオのケート・キャンプに泊まっていたとき、夕食にそれを出され最高に美味かったのを覚えている。バックには主に二人のレゲエのレジェンド、ボブ・マーリーのバッファロー・ソルジャー≠サしてジミー・クリフのノーウーマン・ノークライ≠ェ流れている。もちろんこれはオレの勝手な想像の世界だけど・・・・・それにしても何故、甲斐とオレのアフリカ・スタツアはアフリカの問題の場所に行き、とそしてサファリをやるのか。その組み合わせがとくに「光と影」を表しているとは思わないが、ある意味そうであることは確かだ、スラムの人間たちが1日60円で暮らしている一方で、豪華なロッジには世界中から金持ち(相対的。やっとお金をためてきた人たちも多い)が集い、アフリカの貧困とはまったく関係のない世界で癒され自らの人生をリセットしている、強烈なコントラストだ。おそらくそうした世界の、アフリカのダイレクトな現実を知る機会はそうはない、貴重な体験、学びの一つだと思う。普通のNGO体験スタツアの、ある意味予定調和の世界の中でそこだけしか知らないで帰るのと、思い切り、アフリカの現実に若い心を放り投げるのとどっちがインパクトが強いか、それは想像に任せたい。それぞれの思いを胸にしまい、オレタチはマサイマラにさよならを告げた。個人的には何回来ても何回走ってもマサイマラ、アフリカの大地はオレを裏切らない、前にも言ったが、マサイマラ(ケニヤ)から南のセレンゲティ(タンザニア)にかけて果てしなくどこまでもライオングラスのサバンナが広がっている。今度はみんなとどこのロッジのバーで飲もうか・・・。キーコのバーは低いところにあったがロッジによっては高台にある、そこからは見るアフリカはさらに感動的だ。
マラからナイバシャに移動したオレタチにはもう一つの今回の大きな目的が残されていた。それは2007年末の選挙後の暴力事件で故郷の家を追われた被災民たちが暮らすIDP(Internal-Displaced-Person)キャンプ訪問だ。リーダーの甲斐の専門は国際政治、その中のとくに民主化だ。事前の打ち合わせで直ぐにIDPキャンプ訪問は決まった。ある意味、ヒットだったかもしれない。宿にしたナイバシャ・カントリークラブは取り立ててどうというホテルではないが、実は由緒ある宿泊施設なのだ。IGAD(政府間開発機構/東アフリカ、アフリカの角諸国で構成されている)の中心メンバーであるケニヤは周辺諸国の多くの紛争解決の仲介の労をとってきた。当然、低価格で十分会議、交渉に耐えられる場所が必要だった。まず静かであること、緊張した参加者たちがリラックスできて、思索に耽り戦略を練れる場所、そうした場所として首都のナイロビから約1時間のナイバシャ・カントリークラブが使われてきた。先にも出てきたスーダン内戦の包括的平和条約(CPA)の重要な部分もまたここで決められ、プロトコルとして上梓された。紛争当事国、ゲリラ、ミリシアの大物たちもまた、きっとみんなが寝たベッドで緊張の夜を過ごしたかもしれない。オレがずっと追いかけてきたSPLA(スーダン人民解放軍)のリーダー、ジョン・ガランもまた何度かここを訪れ、北部アラブ・スーダン政府代表で百戦錬磨のアリ・オスマン・タハ外相と行き詰る交渉を重ねていた。22年間に渡る泥沼の内戦を平和に導くのは容易な作業ではない、男たちはここ----ナイバシャ・カントリークラブで難しい交渉を重ねていた。オレは、そのことをレセプションの男に確かめた。「ジョン・ガランは来たんでしょ」「ああ、何度もここに来たよ」、それを聞いてオレは、明日のIDPキャンプが、まさにアフリカ現代史の現場を行く体験になると思った(学生諸子はもちろんそこまで知る由もないだろうが)
その夜、停電騒ぎやらいろいろあったらしいがとりあえず気にしなかった。明日のIDP訪問を前にして甲斐は何かをまとめるといって、先に部屋に帰っていた。オレがしばらくして帰ると、広いリビングの片隅のソファの上でパソコンを開き文章を打っていた。少しだけ明日の打ち合わせをしてオレは部屋に帰った。その後もしばらく甲斐は仕事をしていたようだ。直ぐ側に湖があるせいか、その夜は思ったより冷えた、だいたいが寒がりなオレには結構寒く感じられた。ベッドも短く足が少し出そうだった。
朝が来た。それは飛び切りに気持ちのいい朝だった。久しぶりに感じる清冽な空気だった。
広大な庭に立つ無数のアカシアの木々もまた素晴らしい演出をしていた。その間を湖からの朝風が通り抜けてゆく。
夜中に部屋の側にカバが来たと甲斐が言っていた。そういえばもう一人の参加者(中年オヤジ)もまたカバがカバがと言っていたように記憶している。あの日のナイバシャの朝の気持ち良さは忘れられない。
新宿で話したとき、
「そう言えばナイバシャの甲斐先生のレクチャ、良かったね」
「あれはすごく楽しかった・・・・」
そう、その日の朝、朝食後オレタチはその気持ち良すぎる中庭で甲斐の民主化、選挙についてのレクチャーを受けた。アカシアの木の下に籐椅子を持ち寄ってオレタチは縦長の車座になった。その先に甲斐が立って話しを進めた。簡潔で実にまとまった話だった。「民主化」も「平和」も一つの言葉の象徴に過ぎないこと、だからもっと現実≠フ中から学んでいかなければならないと甲斐は強調した。気のせいか学生たちの目が輝いていた、すごく輝いていた。みんな朝の光の中で集中している。その時オレは今回のツアーの成功を確信した。
「これ良いねー!帰ったら高尾のビアマウントでもやろうか」、甲斐の得意のジョークが出た。しかしそれがジョークに思えないほど確かに雰囲気は良かった。甲斐のジョークは別として、夢に出てきた、何故か忘れ難い・・・といった言いようのない感覚、もしかしてそれはこの集中力=Aテーマと共に歩き感じているというこのみんなが一つになった集中力(体感)からきているのかもしれない、この時のナイバシャ≠ゥらIDPキャンプ≠フ流れの中にそれが象徴されていたのかもしれない。