「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [3]
二回目、2006年、甲斐の率いるアフリカ・スタツアはインド洋に面した長閑なタンザニアの首都ダルエス・サラームから一気にケニヤ北部、スーダン国境にあるスーダン内戦救援前線基地、ロキチョキオ、そして数万の難民たちが集まるカクマ難民キャンプへとジャンプした。オレタチは少しでもアフリカ紛争の風と匂いを嗅ぐためにケニヤの首都ナイロビからさらに飛行機でスーダン国境に飛んだ。そこはスーダン内戦を追いかけてきたオレの取材ベースだった。スーダン内戦被災者たちを救うロキの国連救援基地はスーダン国境までわずか30キロのところに位置している。前年、2005年、スーダン内戦包括平和条約(CPA)が結ばれたとはいえ、まだまだ周囲には不安定な状況が残っていた。オレタチは援助関係者、時折やって来るジャーナリストたちが泊まるキャンプにチェックインした。
内戦の最盛期、キャンプには世界中からの援助関係者、ジャーナリスト、そして彼らをWar-zone(戦場)≠ヨと運ぶパイロットたちが集まっていた。中でも大型輸送機C-130ハーキュリーズを操縦するアメリカ人パイロットたちは、かつてのベトナム、ラオスさながらに顔を利かせていた。オレは何度となく、地上からの救援食料輸送が危険なため空から食料を投下するエア・ドロップを取材させてもらった。カメラを提げ計器で埋め尽くされた鉄の城のようなC-130の操縦室に入るとアメリカ人たちは陽気に迎えてくれた。直ぐに打ち解けかつて彼らが勤務していた「横田」「那覇」といった地名が出てきた。彼らはベトナム戦争当時アジアの空を駆け巡った退役軍人たちだ。内戦で疲弊した南スーダンに食料を届けるため今再び戦場に帰ってきたのだ。「コーク、オア、スプライト?」、オレがコークというと、直ぐにギンギンに冷えたビン入りのコカコーラが出てきた。フランクでストレートなアメリカン・パワーを目の当たりにした。二人のアメリカ人パイロットの後ろにはフィリッピン空軍の現役士官が控え、操縦室全体の調整、コントロールを行っていた。約2時間半の南スーダンへの飛行の後、投下目的地上空に差しかかると、一気に緊張感が辺りを包む、その時オレはすでに貨物室の投下食料の前にスタンバイしている。袋に詰められた計16トンの食料は2列のレールの上にそれぞれ片方8トンづつロープで固定されている。ヘッドセットをした二人のフィリピン人と操縦室とのやりとりも頻繁になる。やがて軋むような金属音と共に後部の床がゆっくりと開いてゆく、暗かった貨物室に少しづつ光が差してくる、次の瞬間、緑に包まれたアフリカの大地が目に飛び込んでくる、二人の男がギリギリのポジションまで進み、オレに来いという、アルミの床がなんとなく沈む、お前はここで落下の画を撮れという、但しロープに絡まれたら地上まで落ちて死ぬぞという。「OK!わかった」。
オレの目の前にはどんな大型スクリーンもかなわないアフリカの大画面が広がっていた。吹き込む風で身体が揺れる。
絶えず操縦室と会話しながら男たちは食料袋の前に腰を降ろし、腰から抜いたナイフを袋を固定したロープに当てている。高度300m、眼下に白いマークが見えた、投下地点だ。次の瞬間男のナイフがぐさりとロープを切断した。軽いレールの音と共にまず8トンの救援食料が滑るようにアフリカの大地めがけて落ちていった。
「ロキ」と聞いただけでそんな思い出が次から次へと蘇ってくる。
スタツアで行った2006年、平和条約から約1年半、援助の最盛期≠フ活気は影をひそめていたがそれでも十分にそうした雰囲気は残っていた。パイロットも、援助関係者も盛期の頃とは比べものにならないがそれなりの男たち女たちが働いていた。C-130をはじめとした数多くの飛行機もまた南スーダン目指して朝から爆音を響かせていた。
ロキチョキオは掛け値なしのフロントライン/最前線だ。内戦、緊急援助、そしてキャンプ・・・・、キャンプの洒落たバー(野外)には辺境の暮らしとストレスに疲れ果てた男たち、そして女たちが集まり、時に強烈な陽射しの差す昼間から酒を飲んでいる、それを非難する者もまた、攻める理由もそこにはない。人間の欲望と悲劇、困難がダイレクトにぶつかりい、それでもかろうじて人道≠ニいう危うい大義に支えられながら人間たちは来る日も来る日も仕事≠ノ生きているからだ。
甲斐とオレが引っ張るスタツアの最大のポイント、それは「セキュリティ/安全」だ。どんなテーマ、どんな内容であろうがこの「安全/セキュリティ」を超えるプライオリティはない。そんな気持ちが現実化してしまったことがある。OLS(ユニセフ、WFPのリードの下30を越す世界中のNGOが集まり、食料緊急支援から、医療、教育に至るまで南部スーダンに対する支援を行っている合同体。1989設立)のオフィスでスーダン支援の概要を聞いた翌日、オレタチはロキから南東に約100キロ離れたカクマ難民キャンプを訪問することになっていた。しかし2006年当時でもその道は強盗やゲリラが出没する道として知られていた。何故そんなにしてまでカクマにいく必要があったのか、それは難民キャンプがアフリカの戦いが生んだ厳しい現実を最も象徴し、さらに手を尽くせば誰でも----学生さえもが訪ねることの可能なギリギリの最前線だったからだ。それ以上はそうした仕事のプロたちの世界となってしまう。それはもちろん独りよがりの思いであってはならない、きちんとした安全の裏づけ無しには実現できないことは余りにも明らかだ。すでにオレタチは国連(UNICEF,UNHCR,OLS等々)を通じて完璧な安全への手配を行っていた。国連はさらに地元ケニヤ軍、そして警察と連携をとり、オレタチのカクマ訪問に対してエスコート(護衛)車輌を手配した。学生が分乗した2台のランドクルーザーの前後にはそれぞれ7、8人づつの兵隊が乗った2台の車が付いた。言い遅れたが運転手と車は前々日すでにナイロビからロキまで呼んでいたテッコ・ツアーズの車だ。ドライバーはアフリカを走らせて百戦錬磨のニコラスとミルトン、タフで視野の広い二人だ。これ以上の安全へのチケットはない。もちろん学生たちにそうした甲斐とオレの配慮に気づく間もない、みな明るく元気にランドクルーザーに乗り込んだ。オレは甲斐と一言二言言葉を交わし、エスコートのリーダーを務める兵士に、「Una Hakika ya Usallama Yetu/セキュリティは万全か?」と聞いた。
「KABISA!!/もちろんさ!!」、と言って兵士はM16ライフルの銃身を撫でた。
小さなコンボイ(隊列)はカクマ目指して突っ走った。
巨大な岩山が朝の逆光に光っている。
時折渡るワジ(枯れた川)には羊たちが群れている。
舗装された道は悪くない。
1時間余後、オレタチは目的地のカクマに着いた。
UNHCRの本部で挨拶と自己紹介を終えた後、オレタチはキャンプを回った。その前に案内役の男がある場所に連れて行ってくれた、広大な敷地には学校が建っていた。ハリウッド・スター&セレブのアンジェリーナ・ジョリーが建てた学校だという、あいにく学期末の休みのため生徒たちはいなかった。オレタチは広大なキャンプを歩いた。1992年にオープンしたカクマ・キャンプは難民キャンプとしてはかなり整備されていた。オレがカクマを初めて訪ねたのは1992年、キャンプが開設された年だ。その時は子供たちだけを集めたキャンプだった。16000人のスーダンを逃れた主に少年たちが暮らしていた。多くのインタビューをした。忘れられないのは、内戦のドサクサの中でアラブのミリシア(武装民兵)の手によって両親を殺されたベンジャミンと名乗る12歳のディンカ族の少年がオレの質問に「I KILL ARABS(ボクはアラブたちを殺す)」と言ったときの、眼差しの厳しさだ。2006年当時でも尚、8万近い難民たちがキャンプで暮らしていた。アフリカ系スーダン人を中心に、コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、そしてエチオピア等々、様々な事情によって未だに祖国に帰れない多くの男たち、女たちが暮らしていた。みな(学生たち)熱心に耳を傾けていた、とくに食料分配所では、写真撮影も禁止され、救援食料分配の厳しさを思い知らされたようだ。8万近い難民たちの腹は決して満たされることはない、それがキャンプの現実だった。今回(2009年)の大都会に建つスラム、2006年の辺境の地に広がる難民キャンプ、アフリカに今のところオレタチが思うような平和(満たされた腹)≠ヘない。
そんな中でオレの気持ちを打ったことがあった。最後の頃オレタチは小さなコンパウンド(敷地)に案内された。オレタチはさらに建物の中に入った。たくさんの子供たちが待っていた。拍手と笑顔が起きた。だが笑顔がどこかちがう、ほんとうの笑顔なのだ。彼らは知的障害者たちだった。難民の存在でさえ大きな困難だ。さらにそうした一群の中に生きる知的障害者たち、イギリス人のリーダーはオレタチに訴えた。難民たちはもちろん救われなければならない存在です、でもしかし、「この人間たち」といって、20人近い男と女、少年と少女たちを見回した。「彼らはもまた救われなければなりません、だが現実は、いつも後回しです」、オレは「・・・・・・」、しょっちゅう言葉を失う(キベラ・スラムの時もそうだ)が、この時もまた、問題、人間が抱える問題の深さに言葉を失った、というか、目の前の人間たちの瞳の余りの美しさに言葉を失くした。助けたい、何とかしたい!!、だが時間はあっという間に過ぎていった。
もし人間の営む社会に正しい目的、道があるとするなら、それはまずこうした自分たちの手ではどうにもできない真の弱者≠スちをこそまずはじめに救わなければならないのではないか、少しくらい儲けた、稼いだからと言って偉そうなことをいう前にこうした者たちの存在にこそまず光は射さなければならない。