「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [4]
2007年、甲斐の率いるアフリカ・スタツアがルワンダへと旅立つ時が来た。甲斐とオレはツアーの始まる数ヶ月前から時折、登戸で会っていた。オレは改めてルワンダを提案した、もちろん甲斐に異存のあるはずがない。オレタチはツアーの内容、テーマ、そしてどれくらいの参加者がいるのかなど幾つかの大切な点について話し合った。ある意味、ポスト冷戦、90年代アフリカ問題の核心ルワンダを訪ねることはこれ以上のアフリカ現代史、さらに国際政治の学びの場はない。「暴力(虐殺)」「民族対立」「資源」「国際社会の対応」「国連PKO」等々、しかも2000年以降、ルワンダを題材にした多くの映画が封切られている。甲斐は機会を見つけて、授業の中で学生たちにルワンダの話をぶつけた。甲斐ゼミを中心に募集をかけたところ先生とオレを除き、過去最多の14人の学生、社会人が集まった。関心の高さがわかった。出発の時期はだいたい夏休み、それも事情によって9月初めが多い。出発最後の打ち合わせは8月後半、高尾のキャンパスで行われた。オレが懇意にしている旅行会社からも再度来ていただき旅行一般の説明から保険の加入、さらに最終参加確認などの手続きの後、甲斐とオレがルワンダについて最後のレクチャーを30分ほど行った。(ルワンダ・スタツアは関心が高いせいもあって2007年、2008年の2回催行した。2008年は隣国コンゴも予定していたが、治安上の理由で果たせなかった)。
ルワンダ行きは事情により羽田/関空発のエミレーツ航空ではなく、成田発の香港経由、ドバイ(キャセイ航空)、ナイロビ(ケニヤ航空)便だ。成田----香港(5時間)、香港-----ドバイ(11時間)、ドバイ----ナイロビ(5時間)、そのほか、待ち時間を加えると、大変な長旅になる。甲斐がいつも学生に言っている、相当タフな旅です、みんなもそうした覚悟で参加してください」と。ルワンダの場合、さらにそこにナイロビ----キガリ間のフライト(1時間)が加わる。ルワンダの首都キガリに着いたときには疲労の極にある、また時には荷物が届かない場合(ロスト・バゲッジ)もある、とくに2008年には全員の荷物が届いていなかった、数日後に届き、現地旅行会社のスタッフがオレタチを追いかけて届けてくれた。
すべての旅(アフリカ・スタツア)がそうであるが、それが可能になるのは、甲斐とオレの現地とその問題に対する深い理解と認識、そして最新情報、さらに現地とのネットワーク、信頼関係があって初めて可能となる。それを支えているのは160回を越えるオレのアフリカ体験とそこから来る自信だ。ルワンダにはフランスのアルザス出身で友人のマルセルとその夫人のカミラ、マルセルの右腕、サムエルとそしてフランシスがいる、とくに難民として長年暮らしていた隣国ウガンダから虐殺後の96年ルワンダにやって来たツチ族のサムエルとの付き合いは長い。オレタチの会話はスワヒリでやる。
ルワンダ・スタツアの概要は大体以下の通りだ。
ナイロビ経由でキガリに入ったその日は、ハリウッド映画「ホテル・ルワンダ」の中でも描かれているが、フツ族過激派に追われた一部ツチ族が逃げ込んだ「ホテル・ミル・コリン」に泊まる。ホテルはかつての支配者ベルギーのナショナル・フラッグ・エアライン、サベナ航空(現在はブラッセル・エアライン)直営ホテルだった。5階建てのそれほど大きなホテルとはいえないが当時としては最高級ホテルだった。90年代半ばルワンダ、ザイール(現コンゴ)取材を重ねていたオレにとって、疲れきった時くらい、ミルコリンの柔らかなベッドで寝たいと思ったくらいだ(ただ今思うとそれほど高級といった感じはしないが、なんとなく伝統の持つ揺るぎなき高級な雰囲気はある/現在改装中)。94年4月半ば、映画でも描かれているが1000人を越す逃げ込んだツチ族たちはプールの水を飲んで渇きをしのいだ。虐殺から4ヵ月後の94年9月、ザイールへ向う途中オレはミルコリンに泊まった、やっとかろうじて営業が再開されたばかりだ、周囲には多くのフツ族過激派たちがうろついている。ナイロビからキガリへ入るのだが、もちろん定期便など飛んでいない、オレは国連が飛ばしているC-130でキガリに入る。道路端の看板には無数の弾痕の跡が生々しい姿を曝している。ホテルには以前から知り合いのジョジョがいた。ジョジョは気を利かせてくれ特別に泊めてくれた。部屋に入って驚いた。ベッドがない、仕方ないのでオレは床に寝た。翌朝オレは多くの厄介な検問を越えながら陸路でザイールの難民キャンプを目指した。
回想をしていると切りがない、先を急ごう・・・・
翌日(ルワンダ2日目)は、キガリの南、約40キロにある近郊でも指折りの虐殺現場、タラマ教会(約5千人のツチ族が殺された)の訪問だ(その後近くのニャマタ教会も訪ねた)。虐殺から1年後の1995年、オレはタラマを取材していた(その時の詳しい状況は未だ未刊だが『ブラッド・レアメタル/虐殺の道』という原稿に書いた、また当時のテレビ朝日、『ニュース・ステーション』の特集、「ルワンダ虐殺から1年/潜入世界最悪の刑務所」の中でレポートした)、ここで余り詳しく書いている余裕はないが、当時、教会の内部は凄まじかった。まるでゴミのように殺された人間たちの骨が、骸骨が散らばっていた。そこに、言われるような人間の尊厳とか、人間性とかそうした欠片は一切なかった。人間の死は唯のゴミ≠ナしかなかった。殺し屋たちの心の余りに渇き切った様が、風景がただ目の前に物としてあった。血の付いた油まみれの衣服、メガネ、傘、靴、アルバム、バスケット、薬、ペンダント、十字架、ノート、写真、ありとあらゆるモノがそこにあった、いや骨とともに散らばっていた。臭いも凄まじかった、あえて言えば味の素と醤油を掻き混ぜたような臭い、そしてカメラを回しながら教会の中を進むと散乱したゴミ≠ェジワーーと沈む、オレもまた時にバランスを崩しそうになる。腹の底から、臭いに対してかすべてに対する嫌悪からか思わず深い溜息がもれる。オレは思わず「神はいなかったのか」そう心の中で叫んだ。
教会の周りの草むらにもいたる所骸骨(頭部)が散乱していた。当時(95年)、教会に向って車を走らせながらオレには教会に逃げ込む数千、数万のツチ族たちの足音が聞こえてくるような気がした、赤茶けた道の周りに立つユーカリの木々のザワメキが何か逃げ惑う男たち、女たちの焦りをさらに誘っていたのではないか、そういった錯覚にさえ捕らわれそうになっていた。
虐殺から13年(たった13年だ、全然過去でなんかない)、しかし教会はいくぶん整理され、また骸骨を置く棚を出来上がり少しづつメモリアルとしての形を整えようとしていた。
タラマからオレタチはルワンダの東の端、タンザニアに国境を接するルスモに急いだ。二つの国を分かつカゲラ川には幅8m、長さ約100mの鉄橋が架かっている。辺りはすでに薄闇に包まれていた。はるか50m下の峡谷にはカゲラ川の激流が轟音を響かせている。何故、暗くなる直前わざわざルスモに来たのか、それは、13年前の96年12月、約80万のツチ族難民が、この橋を渡って祖国ルワンダに帰って行った場所だからだ。96年12月14日、その日の早朝、キガリを発ったオレはルスモの橋(ルワンダ・タンザニア国境)を目指して車を飛ばした。途中、厳しい検問を何とかスワヒリ語でかいくぐり、その日のメディアとしてはルスモに一番乗りした。夕方から難民たちの本格的帰還は始まった。反対側に見えるタンザニア側のゆるい坂道をすべての家財道具を頭に載せた難民たちが目の前のルスモ鉄橋を目指し、下っていた。はじめに弱者、病人、老人などを乗せた大型のトラック・コンボイ(隊列)が、大きなクラクションを鳴らし、夕闇の峡谷一杯にヘッドライトを光らせながらゆっくりと橋を渡っていった。見守る関係者たちの間から思わず拍手と喚声が湧く。峡谷に渡された幅の狭い鉄橋はその度にぐらぐらと揺れる。コンボイの後からは次から次へ、これでもかと無数の難民たちが渡ってゆく。夕闇の中、安堵の中にもどの顔も緊張している。赤十字、UNHCRの職員たちが叫ぶ声が険しい峡谷一杯にこだまする。「ゆっくり進んでください」「皆さんは今ルワンダに帰りました、心配しないでください・・・・!」。帰還民たちの隊列は夜になっても続いた。トラックのライトが峡谷全体を照らす。その波に飲み込まれながらオレも必死でカメラを回し続けた。自転車を押す難民たちに思わず駆け寄る、「お帰りなさい!お腹は減ってませんか!」、オレはビスケットを取り出し男に渡した。「ウラコーゼ、ウラコーゼ(ありがとう/ルワンダ語)」、男の顔からは汗が吹き出ていた。
あれから13年の時が経った。今、学生たちとそのルスモに再び立った。眼下に咆哮を放つ峡谷の激流は岸壁にぶつかり合い夕闇の静寂を破っていた。辺りはすでに暗い、オレタチは橋を渡りタンザニア・サイドに行った。みな残された明かりで写真を撮っている。巨大な滝が吹き上げる白い奔流だけが目に入る。1994年4月、上流の村々で殺された無数の死体がこの橋の下の流れの澱みに引っ掛かり、上流で何が起きたのかを人々に知らせていた。完全に真っ暗な中、オレタチはその夜の宿舎に急いだ。
宿舎となるセント・ジョセフに着いたのは夜の8時を回っていた。お湯が出ないのでバケツの水を被った。やけにビールが効いた。
翌朝オレタチは、ルワンダ東部で最も多くの人間たちが殺されたニャラブイエ教会へ向った。国道を戻り途中から山道に入り、デコボコ道を走ること約1時間、巨大なレンガ造りの教会に着いた。ニャラブイエでは3万人近い主にツチ族が殺された(フツ族穏健派といわれる人間たちも少なからず殺された)、タラマとちがって広い教会の内部には当時の痕跡はほとんどない。キレイに清掃され、正面にはキリスト像が飾られていた。オレタチは数少ない生存者のF氏に当時の話を聞いた。生きていることの奇跡、幸運を噛みしめながらF氏は話をしてくれた。オレタチは別棟に案内された。途中、庭を通った。芝生の庭の片隅にレンガで造った大きな竈があった。案内の男は、ここでフツ族は殺した人間たちの肉をミンチにしてハンバーグを作ったこと、さらにその前の芝生を指差しながらたくさんの女たちがここでレイプされたこと、さらに丸く黒い石を指して、ここでパンガ(ナタ)を研いだことなどを話した。建物の中に入ると台の上に無数の骸骨(頭部)が置かれていた。さっきの人間ハンバーグを作るとき使った小さなミンチ機を見せてくれた、ここに人間の肉を入れ、ミンチにして奴らはハンバーグを作ったのだと身振りを交え話してくれた。小さな木製の壷を見せてくれた。それは何に使われたのか、「ツチ族が悪魔だと頭に叩き込まれていたフツ族はツチの血の色が赤いかどうかを調べるためにこの小さな壷に血を入れて確かめたんです」、ここはキベラとはちがった意味で、言葉を失う、いや想像力が追いつかない。確かに時間的には過去にちがいない、だがこの時間的過去を一体どのように解釈、処理すればよいのか、その手掛かりさえ掴めない。行っても行っても骸骨が台の上に並んでいた。その白さがやけに目に焼きついている。もちろん、頭部は割られ、穴の開いたものが多い。
ニャラブイエとはルワンダ語で風の鳴る丘≠ニいう意味だ。そのユーカリの木々に囲まれた丘の上に静に教会は立っている。
その日は超強行軍だった。東の端にあるニャラブイエからオレタチは西の端に近いブタレ、そしてムランビの虐殺現場に行くことになっていた。国道に戻り、一度首都のキガリを通過しさらに急いだ。ブタレの町を抜け夕陽に向ってオレタチは曲がりくねった山道をムランビの丘を目指した。薄暗くなった大きな建物の前にバスを止め、どうすればいいのか戸惑っていると一人の男が来てこっちだといってオレタチを小高い丘の上に案内した。丘の向こうには大きな黒雲が湧き、急に風が強くなった。一列になって階段を登るオレタチの背中を雨が叩いた。目の前に元技術学校の校舎だという建物が現れた。案内の男が鉄の扉を開けようとするが中々開かない。近くのバナナ畑からはゴミを燃やす炎が上がっていた。辺りは急速に暗くなり始めていた。男は力任せに扉を開けた。その時、薄暗い部屋の中から鉱物質の粉のような匂いが鼻をついた。次の瞬間信じ難い光景が目の前にあった。誰もが一瞬たじろいだ。すぐ側の台の上にあったのは白い粉で包まれた捻れ曲り、潰れた無数の人間の姿だった。骨ではなかった。ダレもが目をそむけた。白く染められているのを除けば、人間たち≠ヘみな生きていた。顔と頭はつぶれ、腕は異様な角度に捻じ曲がり、足は空を蹴っている。どの顔も苦しみと無念の中に今尚生きる叫びを上げていた。死んだ者も生きていた者もそのまま放り込まれ、土を被せられた。すべてが潰され捻じ曲げられた。
南西ルワンダのブタレは、ツチ族と共に反政府(当時のハビヤリマナ政権)系フツ族の多い土地だった。大学もあり、教育レベルも高く知的中心地としても知られていた。ブタレからさらに西にしばらく行くとギコンゴロという土地がある、そこからさらに山に入ったところにムランビがある。ギコンゴロを中心に約5万のツチ、フツ(穏健派)が殺された。その後、何故か数千の死体が掘り起こされた。その掘り起こされた死体に、臭いを防ぐため大量のレモン水と石灰がかけられた、それが今オレタチの目の前にある、生きている$l間の死体だ。骨でもない、頭蓋でもない、それは干からびてはいるがしっかりと肉のついた人間そのものだ。これ以上の衝撃はない。学生たちはほとんど正視できなかった。オレはカメラを回し続けた。鎮魂の安易な慰めの言葉もおそらく何の役にも立たないだろう、それほどに目の前の現実は圧倒的だった。だがそれは所詮過去なのか、キベラやIDPの今と比べれば過去だという。だが今の苦しみは過去の苦しみなくしてありえない・・・・その過去≠ェ目の前で呻(うめ)いている。一体、アフリカとは何だ、アフリカはその時、いや今でさえ何をしているのか、キベラがそうだ、IDPがそうだ。何をオレタチに訴え、求めているのか・・・・、殺し合い、憎悪がぶつかり合う、たくさんの子供たちが残される、アフリカってそんなところなのか・・・・、そんなところだ。いやそれでもオレはアフリカの絆を信じている。誰かが言ったトタン屋根の地平線、あのマサイマラの空は何だ、大地を吹くあの自由な風は何だ・・・・・。
技術学校を後にしたとき、あたりはほとんど暗くなっていた。オレタチは何も語らず、バスに乗った。凄過ぎたのだ。
翌2008年(去年)もまた、ルワンダへ行った。積極的に甲斐が授業でルワンダさらには隣のコンゴ(グレイト・レイクス)の問題を取り上げ、自身もまた論文等々、研究を重ねてきていた為、2年続けてルワンダを選んだ。ただ、バージョン・アップしてコンゴの被災民キャンプ訪問も予定していたが治安上の理由でかなわなかったことはすでに書いた。
その代わり、折角来たのでルワンダ・コンゴ国境、キブ湖畔の町ギセニ(Gyiseni)にまで行った。国境の向こうはコンゴだよってオレは説明した。ここでもオレのプチ・ストーリーはあるが今回は割愛。途中、何台もの国連PKO、コンゴ派遣団(MONUC)のインド兵を乗せたバスとすれ違い、コンゴ紛争の一端を垣間見た思いがした。この年は二つの小さな事件があった、前にも書いた全員のロスト・バゲッジ、それと帰り、キガリの飛行場で全員がチェックインした後、ナイロビ行きの飛行機(KQ/ケニア航空)の故障で11時間!狭いキガリ飛行場の待合室で待たされたことだ。それでも全員元気で乗り切った。オレタチは簡単にはへこたれない。